昭和43年10月20日 朝の御理解


御理解90節
上から下へ水を流すのは見やすいが 下から上へ流すのは難しい 道を開くというても匹夫の凡人から開くのじゃから ものが難しゅうて暇がいる 神のおかげで開かせてもらうのぞ たとえ一時はむつかしことがあっても 辛抱していくうちには徳が受けられる


 道を開くというても、とこう仰る その道とはどういう道を開くことを願いとされてのこのみ教えであるかと、お互いがほんとに有り難い道を開かせてもらわなければならない。その道とはどういうような道を開かせて頂くかと。
 これはもう明らかに、そのお徳によって開く道を教えておられますね。お徳によるところの、お徳によっての道であると。ね、決して見やすいとは思われないですね。
 上から下へ水を流すような訳にはいかん、ね、上から下へ水を流すのであるから、下から上へ水を流すのであるから難しい、しかも匹夫の凡人であるから、なおまた難しい。
 神のおかげで開かせてもらうというのである、あー、これは道を開くということは、道というのは、沢山あるですね。お商売の道、百姓の道、ね、百姓道。
 そのここでは、教会ですね、教会を開くというようなね、教会を、人が助かることのできれる道を開くというようになる。
 金光様の御信心させて頂いて、おかげ頂くということは、すぐにおかげが受けられる、一心を立てると、すぐにおかげを受けられる、ね、すぐにおかげをいただけるというような、そのことではないんですね、ここでは。
 ね、暇がいる、ね、一時は難しいことがある、そういう道なんです。
ね、信心をさせて頂いておっても、どうしてこんなことがと思うような事、これだけ熱心に信心しよっておっても、どうしてこんなあー、困った難儀な問題があるだろうと、ね、たとえ一時は難しいことであっても、ね、そこんところを神のおかげで開かせてもらう、神のおかげで開かせてもらう、ね、たとえ一時は難しいことがあってもね、信心を続けていきよるうちには、もうほんとに目の前が真っ暗になるようなことが起ってくるようなことがあるかもしれんけれども、そこを辛抱していくうちに、間、その間には徳が受けられるとこう、ね、そうして辛抱していきよるうちに徳が受けられる、その徳によって開くことが出来るという道なんです。
 ですから、合楽で今私が皆さんに、毎朝こうやってお話させて頂いておるのは、みんなここの徳を受けての、徳を受けて開かせて頂く道、徳を受けて頂くおかげと、もうここんところに焦点が絞りきられていますね。
 目先目先のおかげじゃいかん、ね、いわゆる佐田さんが先日頂かれたように、ね、花を願わず実を願え、といいうのである。
 ね、そういう道、ね、そこの九十節の前ね、八十九節に「此の方の道は傘一本で開くことができる」とこうおっしゃる。ね、此の方の道ていうのはどういう道かといいうと、ね、そういう道なんです。
それは難しい、傘一本で開けるということは簡単に開けるようであるけれど、その傘一本が実は難しいのです。
 ね、いわゆる傘一本というのは、ね、神様を絶対に信じきった、いわゆる安心という心、どのような場合でも神様のご都合、神様のお働き、神愛以外にはないと信じれれる心、この心が心に頂けたら、もうそれこそ傘一本で開くことができる道なんだ。
 傘、ね、傘一本持っていれば安心だ。どんなに雲って雲行きが悪くなってきても、はぁ、これがあるから濡れんで済むと思うから安心、どんなに暑いときでも、ね、傘一本あれば、暑い思いをせんで済むという道なんだ、ね、。
 ね、此の方の道というのは、そういう道、そこでお互い一本の傘を頂かせて頂くために、一生懸命信心しにゃいけん、どんな場合でも驚かんですむ、どんな場合でも悔まんですむ、どんな場合でも腹を立てんですむ、そういう私は信心のけいこが、もうそれこそ、なんていうんでしょうかね、もう熱烈にそこを求めての信心、ね、しかもそれは簡単にいただけるとは思われない、一時は難しいことがある、場合に神様を疑いたいごたあるときもある。御恨み申し上げたいような時もある。けれどもそこを辛抱していくうちに徳が受けられる。ね、そん徳によって、開かせて頂く道というのは、ね、もう勿論天地との交流というか、天地とのつながったその、道がこう開かれ、その道をたどって私共が頂かせてもらわねばならない幸せになるためにはどうでも頂かねばならない、おかげがその道をたどってこうよしてくる。
 ね、そこを目指す。ためにはやはり私どもが神様を知らなければならん。
神様の、いうならば、夕べは合楽会でしたが、もうほんとに信心話に、いつも十二時までに時間がなってるんです。
 もう色々皆さんのお話を聞いて発表されて、もう何時じゃろうかと、もう十二時半ですと。もうそりからまた、しばらくお話が続きます。もう一時近くまで、エー熱心にお話を聞かせてもろうたり、また私もさせて頂いたりしたわけでございます。
 ね、中々その難しい、いわゆる御道の信心の、いわゆる、ほんし、金光教の信心の本質論です。それをまぁ砕いて、それを話さなきゃならないような話題が出ましたもんですから、いわゆる金光教の本質について、私がお話したんです。
 ね、皆さんが次々お話を発表されるのが、何のことだったでしょうか、とにかくその、灯台足元暗し、ほんとに灯台は足元暗しだと、合楽のたとえばご信者さん方はもうほんとに、えー御大祭なら御大祭の時でもとにかく遠方からお参りになっておられる。沢山の車がこの駐車場いっぱいになる。・・・?それが遠隔地からみんな参って見えられる。
 祝電なんかを見ても、もうほんとに、やはり合楽のご信者さんであろう、ご信者さん方がこの祝電を送っておられる。
もう合楽者は、そのおかげの中にあるけれどもですね、それを気が付かずにおる、いわゆる灯台足元暗しだと、そこでその私は皆さんの一人一人が今度は光になり、皆さん方、一人 一人がおかげを受けられると、それが光になる、なんいうても合楽ということはね、合楽会というのは、合楽の部落におるから、合楽会じゃない、神様も喜んで下さリ、氏子も喜ばれる、ね、神も助かり、氏子も助かり、ね、あいよかけよで、パンとこう拍手を打つように神様だけではどうにも出来ん、人間氏子だけではどうにも出来ない、その神様と氏子の相寄ってです、パンとその音の出る、その音が素晴らしい、だからこれは神様だけでも人間だけではどうにもできない、お互いが相より、相助け合っておうていくというところの信心ね、金光様の信心の本質なんですね、そのへんが。
 そういうおかげでなからなければならないから、ご神縁を頂いておられるあなたがたの一人一人がおかげを受けなければならない。
 ね、もうほんと確かに合楽の金光様がここに御静まり頂いて、そしてその、私は今日、気付かせていただいたんだけれどもというてね、この草野から、九大線からこう降りてきて、ここの道をたどってきておられる、そのかたが、そしたらね、もうきっちり草野郡と合楽郡の堺のようにね、合楽郡だけの田が見事であるのに驚いたとこう言われるですね。
 また善導寺のほうから歩いてきて、善導寺郡と大橋郡、合楽郡というたら、もうきちっとしとるち、合楽郡だけは。ただ皆があの、お神酒を頂いてお神酒を降っておられる方たちもありますしね、ご信者さん方には。
 けどもこれはとてもやはり、合楽の者はそういう意味合いでも気がつかせんなおるけれども、ほんとに金光様のおかげだ、神様のおかげだと、私は思いますと言うてその方が話されるんですよ。
 もうそいから、まあいろいろ、去年は私のほうでは、もうとにかく、大体がまあ、四斗か五斗しか米を出されるけれど、拠出されるとですけども、去年は特に悪かった、そいで私がここから頂いて帰ちょとお神酒を主人に、とにかくあの、どうか言うち、いらんていうかもしれんと思ったけれども、とにかくお神酒を頂いて来とるからお神酒を・・?ってください言うたら、もうそれこそ、ほ、と言うてそのお神酒を持って田にふって回られた。やっぱしかし、できはあんまりかんばしくなかった。ね、それで拠出されたけど、発表がある時に見に行く元気もなかった。そればってん、とにかくお前が見てきてくれとこう言う。四十表出された。ね、ところが途中でその検査官ですか、に合われてから、あんたがたは一等ばいち、そげなことばかリ言うちから、ち言うちから、たてがいなさんなち言うちから行ったと、したら、四十表が全部一等じゃったげな。
 帰ってきてから主人に言うたげな、ほんとにしなかった、というようなおかげを頂きましたというような話。
 息子がトラックの運転手をしよりますから、ちようどここから参らせて頂いて、御神米を頂いたけん、御神米を頂いて行きなさい、と言うて御神米を御米を出して頂かせた。息子も、なら頂いていこかと頂いていった。その晩帰ってきて、もう今日は、今日んごとビックリしたことはなかった、子供が車ん中に入ってきた。もうほんとにビックリしたばってん、んなら、おかげでとは言わんばってん、ふがようして、というわけですよね。
 ね、御神米頂いとったからとも言わんのですよね、けども、今日はほんとに、そのそういうことじゃったと言うてから、息子が帰ってきて話しますのを聞いてから、はー、ほんとにやっぱおかげ頂いとった、というようなおかげ話をします。
 ご近所の方が、夫婦とも知られない、けども言うちゃない、実は胃がんなんです。そいで入院された。大変毎日手術の後が痛んでならないと、そこでお見舞いに行かれてから、これは金光様の御神米じゃから、どうぞ痛いところに当てて、金光様を念じなさい、そして教典を、この頃ここで記念祭の時頂いたあれを持って行って、これを痛がらっしゃる時には読んで上げて下さい、心が安まる、心が安まりゃ、必ずおかげ頂くというてその置いてきた。そこでね、御神米をここにお祭りしたそれから痛まんごつなった、というように、もう一人一人がですね、あーたがた、もうそげんおかげ頂いて、どうしてお礼参りこんの、ち言いたいほどにですね、もう皆おかげ受けておられるですね、ですから、いわば見やすくいうか、難しいおかげでじゃないでしょうが。
そういうおかげの受けられる信心なんだけれどです、んなら道を開くということはそんなに見やすいことじゃない、子供にも孫にも残して置けれる道なんです。
 ね、またあの世にも持って行けれる、お徳を持って行けれる道なんです。
ね、そういう道を開くということは、しかも匹夫の凡人からのことであるから、それこそ下から上に水を流すように難しい。難しいけれどもです、そこんところを辛抱し抜いて、一時は難しいことがあってもとこういうておられる。どのような場合であっても、そこを疑わんで済む、迷わんで済むおかげを頂かしてもろうて、ね、御神愛の表れだ、とそこをわからせて頂いて辛抱していくうちに、徳がうけられると。
 ね、ですからその辛抱していくうちに、開かれるところの道なんです。辛抱していくうちに受けられるところのお徳なんです。そのお徳によって、開かせていただく道なんです。金光様の信心というのは。ね。
 夕べ、合楽会ですから、御祈念終って早く、そのそちらの方へと思うておりましたけれど、昨日はもうつい、立とうとすると参って来る、ちょうど、私は十一時半までお取次ぎさせて頂いた。あ、十時半まで。その中に立とうとしよったら参って来た方があった。「もう先生、今日という今日は、もうほんとにあの堪忍袋の尾が切れるという事はこのことじゃろろうかと、ね、ほんとに私にもし信心がなかったら、今晩ばかりは、どげなこつになったじゃりろうかと思うような事があった、ね、けれども、とにかく合楽、もうそんときにゃね、日ごろ頂いておる教えなんかはもう、分からんとですよね。けども分からんけれども、ここで自分が腹を立てたら、合楽におかげを頂いておる値打ちが無い、福岡から、わざわざ、福岡、そのためにとにかく合楽、合楽と心の中に念じながらお参りして来た。
 ね、願わせていただくと、そいで私が立とうとしておる時でしたから、滑り込みで間に合うたわけです。ね、信心させていただきよってもやはりそういうようなこともある。
 ですからそこのところをです、大事にしていかなければならない。
 ね、むしろたとえば私共が、願っておる、あなたが願っておる、いわば大きなおかげを頂きたいこう思う、これからいうなら道を開いたていかなければならないあなた。しかも小さな道より大きな道を開かなければならない、ね、それにはそういうような、例えば問題でもです、自分の心の中に泳がせれる、浅いところには浅い魚しか住まん、あ、小さい魚しか住まん。ね、深いところには、大きな魚が住む、そういう時にいよいよ深める、そういうときにいよいよ自分の心を大きくしていく。
 いうならば願ってもない良いチャンスに恵まれておるのだけれども、そこんところが、目の前のそこんところだけしか分からん。ね、そうされた仕打ちとか、言うたその言葉とかだけが、もう頭ん中でいっぱいである。ね、まあ、よう、それで金光様、金光様でここまで辛抱してきて参ってよかった、というてほんとにおかげを頂いてね、その方帰らせていただいたんですけれども。んー、そういうようなこともある、信心しよる間には。
 そこんところをやはり、歯を食いしばらなければならない、生神金光大神様、金光大神様を念じて辛抱していくうちにですね、徳が受けられる。
 ですからそういう道は、決して見やすいものではない、いわゆる難しい道である。
 ね、匹夫の凡人から開くのじゃから、ね、この匹夫の凡人というのはです、例えば叩かれれば痛いということなんです。ね、自分の気に添わぬことを言われればです、腹が立つのです、これが匹夫の凡人だからなのです。
 ね、それを生身をもっておる人間だから、とこう言うわけです。ね、叩かれれば痛い、悪口を言われれば腹が立つ、ね、そういう凡人からです、おかげ頂いていこう、ね、いわゆるその生き神を目指しての信心。
 昨日、テレビでご覧になったでしょうね、あのオリンピックのアメリカの黒人の選手が、走り幅跳びで九m近くとんだという、もう当分おそらくこういう記録は出まいとこう言うておりましたですね。ほんとに驚くばかりです。九mというんですから、あなたちょうどですか、畳何畳なる、たいしたこいことですよね、もうそれこそ弛まずの稽古が成されてから、あれだけのこと、それこそ世界中を驚かすほどのことなんですね。おそらく世界中の者が驚いたに違いない。ね。
 ご本部へお参りをされておられる方はご承知でしょうけれど、奥城へ参りますと教祖様のいわゆる送り名、教祖様のお墓に刻んである教祖様のそれには、なんと書いてあるかと、人力脅しのミコトと書いちゃある。人の力、人の力を持ってです、人の世を驚かすほどのものと、こういうことなんです。
 ね、人力脅のミコト。ね、そういう例えば天地の中にはね、素晴らしい、いわば、働きというものがある。ね、たとえばそのアメリカの黒人選手の場合でもです、一生懸命のその精進がです、ああいう成果を生むことがでけた。
ね、とても稽古なしにはできない。世界中の者を驚かすほどのこと。一生懸命の精進が成されなければです、そういう成果は上がらない。 
 教祖様でも一百姓であり、一自分でも凡夫というておられる。ね。初めから生神様ではなかった。ね、ならどいう信心をなさっておられたかというと、実意丁寧神信心である。どのような場合であっても、ね。どのような場合であっても、ね、神様のご都合として、神様のおかげとしてね、受けぬいた。どこに御粗末ご無礼があるやら分からんとして、自分自身もいよいよ見極めておいでられた。
 ね、そうしていかれるうちに、いわゆる天地金の神と同根とまで言われるようなお徳を受けておいでられた。ね、ですから、教祖様ご自身がそこを辿っておられるのであるから、皆もこのようなおかげが受けられると言うておられる。ね、皆もこのようなおかげを受けられると言うそのおかげとは、どういうおことかというと、九十節に表れておるような道なんです。ね、そこんところを辛抱していくうちに徳が受けられるという、ね、その徳で開かせて頂くという道なんです。
 お徳によらなければ、ふならそのお徳を頂くためにはです、場合にはそれこそ、断腸の思いね、いわゆるもうほんとに腹が煮え繰り返るようなところもです、それは神様がわざわざ通らせてくださるんである。ね、してみるとあなたはお礼を言わなければいけんのじゃないかというわけ、夕べのこと、ね、そのことに対ししてお礼を申し上げなければいけなじゃないかと、ね、そこを一時は難しいことがあっても、辛抱していく間には、徳が受けられるね、徳が受けられる、いわゆる安心という傘を頂くことができる。そこでなら九十、八十九節にあるように、此の方の道は傘一本で開くことができるという道が開ける。
 傘一本で開ける道、どのような場合であっても、お礼を申し上げる以外にはないんだと、ね、神様の働きというものは、ね、ただ氏子可愛いという働きしかないんだ、その働きの中にはです、今もいうように断腸の思いをするようなこともあるけれども、そこを辛抱していくうちに徳が受けられる。それは匹夫の凡人であるから、ね、叩かれればやっぱり痛い、悪口を言われればやっぱ腹が立つけれども、そこを辛抱していくうちに徳が受けられる。
 ね、その徳を受けていくということがです、その徳を受けていくということによってです、開かせて頂く道なんです。金光様の信心は。
 今、合楽で皆さんに私が言うておることは、もうそのことばっかりを、いわば聞いて頂いているんです。
 ね、ただ、合楽の方たちが日参するわけでもない、朝参りをするわけでもない、ね、ただ三、四人方がね、こうして参って来ておるくらいなことなんです。
 けどももその方たちのたとえば発表、夕べの発表を聞いておってもです、この神様のおかげというものは、ほんとにたまがると思うようなおかげを受けておる。ね、しかしそういうおかげは道にはならんて、そのおかげは。ね、天地を貫くような道にはならない、ね、いうならば、それは花なのだ、ね、実りじゃない、ね、一時はどんなに難しいことがあっても辛抱していく、辛抱できる、辛抱しぬかせてもらうという信心、しかも身に徳を受けさせて頂く信心、ね、そこを勇んで心から受けぬいていくところの信心、ね、そこから私は神のおかげで開かせてもらうのぞ、とここにあります。 
 神のおかげで開かせていただけるおかげの道が開けてくる。
 いつも、ここんところを頂くとですけれど、今日はここんところのですね、ここに此の方の道とか、難しい道を開くというてもとか、という道ということを、がでて参りますがね、道とはどういう道かと、それはね、あのお徳を持って開かせていただく道だとね、ですからお徳を受けるということは、一時はやはり難しいことがあっても、辛抱していくうちに、とこうおっしゃる。ね、または、もう暇がいるとこうはっきりと言うておられる。ですから、暇のいる、時間をかけなければできないことだけれども、その時間をかけるという間にです、ね、信心の妙、信心の味わいというものをよーく分からせてもらう、苦しいことだけたくさん続きゃせん、ね、こりゃ信心させていただかなければ分らない、信心の妙、信心の味わいというものを味あわせて頂きながら、辛抱しぬいていく、そこに神のおかげで開かせて頂く道が開かれてくる、辛抱していく間には徳が受けられる、という徳を身受けていく、そこにあの世この世をかけての、いわば有難い道というのが頂けれる。 ね、そこんところをお互い、目指しての信心、ね、そこんところに私はお互いの思いを置き換えてからの信心でないとね、自分に都合が悪い、自分の思いにならないと神様もおかげを頂かせきんなさらじゃったように思うて、信心が、そこから中座してしまう、折れてしまう、ね、神様は決してそんなに、そ、あーそうか、そうかと言うて言いなりに下さるはずはない、ね、けれれども、その神様が分からないと、分からないから神様のたとえば、そのご威徳というものをですね、見やすう見せても下さる、分からしても下さるけども、ただそれに甘んじておったら、それに腰掛けておるだけの信心ではどうにもできませんですね。
 どうでも一つ、上から下へ水を流すようなものですから、ね、難しゆうても、その難しい中に、むしろ有難いもの、楽しいものを分からせて頂いて、力を受けていきたい、徳を受けていきたいと思うですね。どうぞ   (大坪かよこ)